2000年6月25日 ツール・ド・ジャパン 第一戦
昭和記念公園 一周5km×14周 70km

 今日はレース会場が近いので自走で行こうと決めていて、レースが午後2時からと言うこともあり、午前中は衆議院議員選挙に行き、余裕で日曜日の昼間を過ごしていたら、江本選手からはやく来るようにとの電話が入ったので、昼食後すぐ出かけることにした。
 会場まではあいにくの雨で、ぬれながら行かざるを得なかった。そのときに少しからだが重いような気がしたが、それを昨日飲んだウォッカのせいにするわけには行かないでしょ。^^
 S(最上級)クラスには、ヤマダレーシングからは3名、つまり、堀内(僕)、江本、浜西が参加した。この人数は初めての快挙である。と、いうことで、僕らの展開に持っていけるのではないかと、楽しみになってきていた。
 スタートから落車したくないので、最前列からスタートした。中盤までは集団の中でぬくぬくとしていようと思っていたのだが、最初の周から、早速、江本選手がアタックを繰り返すので、僕もそのアタック合戦に参加した。僕らと青木選手(リマサンズ)のアタックはことごとくつぶされて、7周もすればそのアタックは落ち着いた。
 僕は、あとで気づいたことなんですが、他の選手(大塚和平さん)などのアタックは誰も追わないのに、僕らがアタックしたときにだけ集団が逃がしてくらないということは、相当マークされていたからだろうと思う。ま、マークされるようになっただけ、立派だが、そのマークをちぎれないということは、まだまだということでしょう。
 さて、中盤からは集団が硬直状態になり、江本選手は右太股の張りを訴えるものの、完全にゴールスプリントに備えて力を温存する状態になっていた。僕は相変わらずゴールスプリントより、逃げにこだわっているから、逃げるチャンスをうかがうことにした。
 前半のアタックで、疲れていたので、逃げても、もって2周だと思っていた。ラスト3週目から集団のスピードが上がりはじめ、40km/hの後半で走っていたようである(僕の自転車にはメーターをつけていないので、江本情報)。ここからはスピードが落ち次第アタックしてやろうと思っていたので、機をうかがっていた。
 ラスト4.5kmの小さな上りのてっぺんでスピードが落ちた。いまだ!と思い、思いっきりペダルを踏み込んだ。そしたら、お約束通り、足がつった(かなり辛い)。でも、一度かけたアタックをやめても、もう負けるだけなので、踏めるだけ踏んで、自分の限界に挑んだ。かなり粘ったつもりだが、残り1kmくらいでつかまり、僕はその大集団の後ろの方でゴール。江本選手は3位に入ったが、負けは負け(1位以外は負けという概念)、無念そうであった。
 そういえば、浜西選手の姿を一度も見なかったのですが、一週目でメカトラ(メカのトラブル)がおこり、リタイヤだそうです。残念。次は整備を良くしましょう。